彼の住む森は広い。
私の住む街よりも何倍も広い。
街の端から端まで何十人の人が居て、何十件のお店があるだろう。
私の通う学校までに何人も友達がいて一緒に通学をする。
通学路にはパン屋さんやレストラン、お花屋さんだってある。
もっと大通りに出れば市場や劇場、病院だって。
でも、街の出口からすぐにある、あの広い森に彼は独りだ。
彼に出会ったのは、わたしがまだ5歳のとき
森の入り口あたりで花を摘んだりしていたはずが、
奥にきれいな花を見つけ、次第に奥に入り込んでいってしまっていた。
気付けば陽が傾きだし、木々に囲まれたわたしは影に埋もれていった。
あの日もこんな静かな雨だった。
捕まえたウサギを抱えたまま、帰り道も分からず困り果て、見つけた大きな岩に背中を預けた。
しんと静かな森に一人きりなのに、不思議と怖くなくて、
雨が降り出したって泣かなかったことを覚えてる。
抱えたウサギが寒そうにしているから胸に抱き込み直すと、ふと頭上から降る雨粒がなくなっていることに気付いた。
葉に雨が当たる音が近くで聞こえて見上げると、さっきまでなかったのに、
頭のすぐ上に木の枝があってわたしに雨が当たるのを防いでくれていた。
でも木は動くことはできない。急に遠くにあった木が移動してきたんなんてことはありえない。
枝の上、自分の背後にある岩の上へ視線をあげるとそこに彼が座っていた。
皮膚は木の皮の様に硬くひび割れている様だった。
服はシャツにズボンと簡素で長い年月着続けているのだろう、ところどころが裂けたり汚れたりしていた。
そして彼の目は白目の部分が黄色く琥珀の様になっていた。
その彼の背から枝が生えていた。茂った葉が天使様の羽根の様だ。
その一翼をわたしの頭上に広げてくれていたのだ。
彼はわたしを見ずどこか遠くを見つめていたが
わたしの視線に気づいたのか振り返って口を開いた。
「迷い込んでしまったんだろう?」
木の洞に響くような低い声だった。
わたしが問いかけにうなづくと
「もうしばらくしたらこの雨もやむだろう。
雨が止んだら街へ続く道まで送ってあげるから
まっすぐ家へ帰りなさい。」
そう言うと、また彼は先ほどまで眺めていた方向へ視線をもどした。
彼の言う通り、雨はわたしが詩の暗唱をしている間にあがった。
雲間から差し込む夕日に目を細めると、彼はわたしの頭上に広げていた枝をたたんだ。
背中にあるその枝葉についた雨粒が煌めいてきれいだった。
わたしの知っている天使様は真っ白で柔らかそうで、その正反対みたいな彼が本当に天使みたいで不思議だった。
静かに歩き出した彼について行くと街へ続く道が森の中に現れた。
「さあ、この道を行けばすぐに森をでられる。」
「あ、ありがとうございます。」
わたしが道へ踏み出して歩き出すと、背中に声がかけられた。
「お嬢さん、君の名前は何というんだい?」
「――――です。」
「そうか、あいつの…随分時間がたったんだな…。」
「?」
「なんでもない。さあきっと街では大騒ぎだ。早く帰りなさい。」
夕日が沈み、暗くなると遠くに松明の火が見えた。
それを見て彼の言葉の意味がわかったわたしは街へ一目散に走りだし
森の入り口にいた捜索隊のひとに保護された。
あれから随分経つ。
彼がある病気を患いあのような姿になった事、
とても長い年月あの森で暮らしている事は両親に聞かされた。
父は詳しくは教えてくれなかったが彼個人に関して何か知っているようだったが教えてはもらえなかった。
雨が降ると彼が岩の上に座って何を思っていたのか考える。
あの静かな森に降り注ぐ雨の中、一人で彼は何を考えているのか
この先も、ずっと。
それを知りたい気持ちが膨れ上がった時、私はまたあの森へ足を踏み入れるのだろう。